ジラール・ペルゴ

伝統と責務

ジラール・ペルゴは、227 年を超えてスイスのマニュファクチュールとして技術と美しさ両方の観点から完成度の高い時計作りを追求してきました。創立自体は1791 年のジュネーブまで遡り、1906年にはジラール・ペルゴが工房を買い取って自身の初となる時計を作り上げました。そして1856年、コンスタン・ジラールとマリー・ペルゴの結婚により、時計製造の街として知られるラ・ショー=ド=フォンでブランドの名が確立されます。ジラール・ペルゴは一貫して時計の専門技術にこだわり、この分野における先駆者として革新的なモデルを作り続け、現在も保持されている 100 件もの特許技術でさらに盤石なものとしました。
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1791 年 ジュネーブ

ジャン=フランソワ・ボット

ジラール・ペルゴの起源は、ジュネーブの時計師で宝石職人でもあったジャン=フランソワ・ボットの業績にあります。ボットが初めて時計を作ったのは 1791 年のことで後の 1856 年にコンスタン・ジラールとマリー・ペルゴが誕生させたジラール・ペルゴがその工房を引き継ぎ、1906 年に成功を収めました。

ボットは 1772 年 3 月 26 日、貧しい労働者の家に生まれました。12 歳で孤児になり、宝石職人や金細工職人、ケースの組立て師などさまざまな職の見習いとして働き始めました。真面目で熱心な取り組みもあって、やがて時計の製造とギヨシェ彫刻の専門家へと成長します。彼は職人として紛れもなく才能に恵まれていましたが、それは優れた商才に裏打ちされたものでもありました。1795 年、ジャン=フランソワ・ボットは時計師として早い段階から、自ら手掛けた時計を売るために遠方まで出向いていました。そしてついに、豊かな時代背景もあって、それまでにない時計製造全般を手掛ける総合的なファブリケ(fabrique:フランス語で時計工房を指す)を設けるまでになります。そこでは 180 人の従業員が働き、在宅の 120 人の職人が彼らを支援しました。

ボットは、ジュネーブに加えてパリとフィレンツェにも店を構えていました。そして、特にロシアとデンマークの王室を始めとするヨーロッパ中の上流階級と緊密な関係を築き上げました。その名声は、上流階級の間でこぞってジュネーブにある彼のメゾンを訪れるほどで、顔ぶれもバルザック、デュマ、未来のヴィクトリア女王など錚々たるものでした。

Jean-François Bautte portrait
Jean-François Bautte watch
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起源

ラ・ショー=ド=フォン

「時計の帝都」とは、17 世紀末から時計製造の技術を大切に守り続けてきたラ・ショー =ド=フォンに付けられた呼称です。街を壊滅状態に追い込んだ 1794 年の大火の後、19 世紀初頭から本格的な都市計画が導入されました。まず、東から西に走る通りの幅を広げ、太陽の軌道に合わせてまっすぐに整備して室内に十分な採光が取れるようにし、高さを厳しく制限して南面に庭を設け、建物を通りから離して建てるようにしました。そのため、人工の照明があまり整っていなかった時代にあって、この地の工房には太陽光を最大限に活用できる最適な環境が整っていました。世界のどこにもないこの特徴は、ラ・ショー=ド=フォンがユネスコの世界遺産リストに登録されるほど高く評価されています。

ジラール・ペルゴは、魂のこもっていない真新しいマニュファクチュールではなく、敢えて 20 世紀初頭に建造され、当時のトロンプ・ルイユ(だまし絵)が残る古い建物を美しく修復した建物を拠点として事業を展開しています。

La Chaux-de-Fonds - The origins
La Chaux-de-Fonds - Manufactures
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マニュファクチュール

スイス時計製造の中心

自社内で時計部品を開発、製造するジラール・ペルゴは、Manufacture(マニュファクチュール)という肩書を堂々と名乗っています。ブランドは目に見える外観のみならず、隠れた部分であるムーブメントにおいても完成度の高さを追求してきました。

コンスタン・ジラールは、ムーブメントを時計の技術的な部品として捉えながら、さらに構造を、紛れもない特徴となる造作へと向上させました。ジラール・ペルゴが手掛けたことがひと目でわかる時計は、国内外の展示会で極めて高い評価を得ました。代表的なものが、1889 年のパリ万国博覧会に出展され金賞を獲得したスリー・ゴールドブリッジ トゥールビヨン、ラ・エスメラルダです。

The Manufacture - Pilar of the Swiss Watchmaking
The Manufacture - Watch
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新たな市場

世界制覇

19 世紀後半に入ると、ジラール・ペルゴにとっても新たな市場の開拓が必要不可欠となってゆきます。それまでとは異なり、長期的な旅行も珍しくない時代になって、時計メーカーは取引先を求めて遠く異国まで足を運ぶようになりました。

コンスタン・ジラールの義理の弟、フランソワ・ペルゴは 1859 年にシンガポールへ向かうとそこで 1 年以上を過ごし、その後、当時まだスイスの時計メーカーがまったく参入していなかった日本へも足を延ばしました。驚いたことに、西洋と東洋では時間の区分法がまったく異なり、そのため西洋式の時計は用を為さない状態でした。このような障害にもかかわらず、フランソワはムーブメントに精緻な彫刻を施した魅力的で本格的な時計を作らせ、日本の富裕層を魅了することに成功します。これがその後のジラール・ペルゴと日本の長きにわたる絆の始まりとなりました。

1865年、ジラール・ペルゴはブエノスアイレスに販売代理店を設け、もう一人の義理の弟、アンリ・ペルゴに任せました。この代理店ではジラール・ペルゴの最高級の時計が扱われていました。トゥールビヨン、ミニッツリピーター、その他の洗練された重厚で豪華な装飾を施したケースのグランドコンプリケーション モデルで、いずれも南米の富裕層に好評を博します。

新たな市場 - 世界制覇
新たな市場 - Watch
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時計学

精度の追求

極めて精度の高い時間測定の技術である時計学の誕生は、19 世紀中頃まで遡ります。コンスタン・ジラールは、精度の高いムーブメントの実現に貢献する革新技術であるトゥールビヨンに、早くから関心を寄せていました。そのため、精度を向上させるためのムーブメントの構造と構成部品の形状を重点的に研究し、1850 年代中頃からは平行する 3 つのブリッジでキャリバーにトゥールビヨン レギュレーターを取り付けた時計の製造を開始します。これは、彼が手掛けた中では初めて 1867 年にパリ万国博覧会で受賞した時計となりました。

1957 年、ジラール・ペルゴの時計師達は、極めて薄い時計を製造するための超薄型高性能自動巻きシステム、ジャイロマティックを導入します。この技術は、毎時 36,000 振動を誇る世界初の超高振動機械式ムーブメント、ジャイロマティック HFが登場した 1965 年に頂点を迎えます。

1960 年代の終わり頃には、時計を結局のところは精密機械であると捉えたスイスの時計メーカーは、精度をさらに引き上げる手段としてクォーツの導入を決断していました。1971 年にジラール・ペルゴが発表したスイス初のクォーツ時計に組み込まれた水晶振動子は 32,768 ヘルツで振動し、これは今なお世界中の時計メーカーの間で基準値とされています。

時計学 - 精度の追求
06
コンセプトをかたちに

研究開発

最初にコンセプトを思いついてから最終的な時計の形に仕上げるまでには時間がかかるものです。数々の研究、分析、スケールモデルの製造などから成る長いプロセスを経て、当初のコンセプトの検証や調整が実現するわけです。それぞれの部品にふさわしい加工法、装飾、組立て作業が決まってからも、場合によっては専用の工具や装置の開発が加わり、そうして初めて新しいモデルの製造が始まります。

2008 年にプロトタイプとして発表され 2013 年から量産を開始したコンスタント・エスケープメント L.M. には、世界の時計製造業界でもその影響の範囲や度合いをすぐには把握できないような技術的改良が重ねられています。5 世紀にもわたって専門家を悩ませてきた課題をジラール・ペルゴが解決することに成功したのも、たゆまぬ技術革新があればこそでした。それは一定の力です。多くの優れた発想がそうであるように、これも非常に単純なものでした。香箱の変動する動力を脱進機の中心部に取り付けたシリコン製のブレードに蓄積し、円滑かつ一定のペースで定力機構に伝達します。

コンセプトをかたちに - 研究開発
コンセプトをかたちに - Technicien
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そこに潜むもの

外見の美しさを超えて

時計は外側と同じようにその内側も美しくあるべきです。現代においても 1791 年当時と同様に、機械式ムーブメントの内部機構に小さな欠陥があれば、ムーブメントの円滑な動作に決定的な支障をきたしかねません。したがって、すべての部品は熟練の面取り職人の手で加工されます。

ジラール・ペルゴでは、特にムーブメント関連の部品の開発、機械加工などには最も革新的な技術を採用しています。一方で装飾、組立て、調整は、伝統的な技術で完全に手作業で行っています。後者のような仕上げには、スティールやゴールドのケースの下に隠れることの多い部品であっても、完成までに何カ月も費やされます。

そこに潜むもの - 外見の美しさを超えて
そこに潜むもの - Finition
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